義高にまつわる名所旧跡

入間川(いるまがわ)

■入間川(河)としての概念

 文学・文芸等における河川の特性

 古代より稲作を行ってきた日本人は、河川と密接に結びついた生活を営んできており、このつながりは、文学や絵画、能狂言、歌舞伎など様々な芸術に豊かにかつ多彩に表現されてきた。また、これら表現された芸術は、地元だけでなく、広く全国にも知られ、日本人特有の河川観をつくり上げていった。
 川の姿は、多くの文人や画人に表現され、そして、その作品を通じて日本全国に広められることによって、地域固有の川の姿(名所、歌枕など)や川の持つ無常観などの特有の河川観をつくり上げていった。
 これほど豊かに、そして多彩に川の芸術を有する国民は、日本人を除いて世界的にそう多くはないと考えられ、川というものが、我々日本人の記憶の奥底にまで入っているということを表しているものと考えられる。また、地域固有の川の個性は、地域と川との関わりの中で、さまざまな民俗を育んでいった 歌枕は識別の際、日本各地の索引として有効であり、これを手がかりに地域の歴史・風土を調査することも可能である。ただし、歌枕は、当時の政治体制との関わりも大きく、この入間川においては歌枕の存在がない。それも一つの不可解な謎として残る。川の向こうは何があるのか。向こうには詞の違う異国が存在していたのか。
 ここでの入間川を介した「川」という概念が存在し、先に述べた高麗郡との密接な関係がそこにある。入間川の上流から河口に至るまで、数多くの「白髭神社」という名称の神社が点在し、いずれも同系のものである。この白髭とは高麗神社の創健者「高麗若光」が由縁となっている。以上の事柄が、直接的に狂言「入間川」その他の文芸作品に関する、入間様、入間詞に、つながる根拠としては明確には示されていないが、今後の研究によりその糸口が見えてくるものと手応えを感じている。

 また、関東公方、足利基氏は別名「入間川殿」と呼ばれ、約九年間この入間川の地に滞在していた「入間川御所」の存在は各種の文献及び史料から明らかになっており、大規模な御所と多くの人馬が常駐していた。そこでは、北からの進行を防ぐ意味であるが、この間の公方としての役割は鎌倉から入間川に移り、それらを行っていたものであろう。
その時点では鎌倉、国府府中に継ぐ、関東では第三の都であったと言っても過言ではないであろう。
 以上が歴史的見知等により推察した入間様、入間詞に関しての所見である。                                                                                                         

 現在においては、入間様、入間詞、逆さ詞に関しての本格研究がほとんど成されていない。著書及び先行論文においても多くを見ることが出来ない。この調査研究至っては、表題のとおり入間様の発生から変遷を考察し、結論づけるものである。
 入間様、入間詞、逆さ詞の存在を発祥の地である「入間地方(高麗郷も含む)」において、その意味を理解している者はは極めて少なく、ほとんどがその存在すら知らない。全国的には同様であろうと考える。この調査研究により、この地方の人が一人でも多く、興味を持ち、それらを理解することにより、「入間地方」における古代からの歴史と文芸を認識して、今後の広い意味での発展につながることを望むものである。街おこし等も含め新たな観光資源としての貴重な資料となるものと考える。



影隠地蔵/身隠地蔵                「道・鎌倉街道探索日記」より抜粋
かげかくしじぞう/みかくしじぞう

 

入間川を新富士見橋で渡った道路はしばらく行くと奥州道という交差点に出ます。鎌倉街道上道は上野、信濃方面に向かう道のはずなのですが、何故かここで奥州道が出てきます。 奥州に向かう鎌倉街道としては中道があるわけですが、鎌倉時代以前は奥州方面に行く道として上道を通り北武蔵のどこかで分岐し、上野、下野を通り奥州方面に向かったものと考えられているようです。
この交差点の坂を少し上った傍らに影隠地蔵というお地蔵様があります。木曽義仲の子で頼朝に人質として捕らえられ鎌倉にいた義高は、父義仲の死後、我が身に難が及ぶのを避けるため、頼朝の娘の大姫のはからいで、 一路上道を北へと逃走しますが、ついにここ入間川で追ってに追いつかれてしまいました。しかし、この地蔵尊の影に隠れて一時難を逃れたと言い伝えられています。

狭山市奥州道交差点近くの影隠地蔵

鎌倉時代の史書『吾妻鏡』につぎのような話が記されています。
木曽義仲が源範頼・義経に討たれた後、頼朝は人質として鎌倉にいたその子義高も殺そうと企てますが、頼朝の娘で 義高を婿にしていた大姫にそのことが発覚されてしまい、義高は自分に難が及ぶのをさけ、密かに鎌倉を脱出して祖父義賢の地(大蔵)や義仲を助けた畠山重能の地(菅谷)のある現在の嵐山町を目指します。 しかしこの入間川の地で追っ手の堀藤次らに追いつかれ、一度は地蔵尊(影隠地蔵)の陰で難を逃れますが、ついに捕らえられ藤内光澄によって斬られてしまいました。頼朝の妻政子は嘆き悲しむ大姫を哀れに思い、 直接に義高を斬った藤内光澄を打ち首にしてしまったといいます。 そして義高の霊を祀るため、その地に社を建てたというのが清水八幡神社です。

現在ある影隠地蔵は入間川の洪水等で位置を何度か移動したそうですが、 子供でも身を隠せるほど大きなものではありますん。また地蔵尊自体も鎌倉時代まで遡るほど古いものとは思えません。この話は義高を哀れんで土地の人がその後に伝え地蔵尊を建てたと考えるのが妥当のようです。 この『吾妻鏡』の話は鎌倉街道上道が文献に出てくるもっとも古い話だそうです。

影隠地蔵

信濃坂

奥州道の交差点、影隠地蔵の前の通りはその先は長い登り坂となります。この坂を「信濃坂」といいます。昔信濃の国へ通じていたのでそう呼ばれたそうです。坂の下は奥州道でこの坂は信濃坂。 行く先の違う地名が同じ地に存在するのは、何かちょっと変な気がします。またこの坂を上りきり工場団地の中を東に少し行ったところに「甲斐屋坂」という切り通しの坂もあります。そして坂の西に少し行ったところに、今宿遺跡という縄文時代から平安時代の長きにわたる遺跡があります。さてこの先旧街道はこの信濃坂を上り北へと進みます。 現在の道は途中に智光山公園などがあり、日高市大谷沢までは舗装され拡張された車道になっています。

 

Wikipedia より出典

清水八幡宮

清水八幡宮
Shimizu hachimangu shrine.jpg
所在地 埼玉県狭山市入間川3-35
位置 北緯35度51分26.8秒
東経139度24分11秒
主祭神 木曾清水冠者義高
社格 無格社
創建 元暦元(1184)年
本殿の様式 流造
例祭 5月第3日曜日
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清水八幡宮(しみずはちまんぐう)は埼玉県狭山市入間川にある神社である。旧社格は無格社

 

 

祭神[編集]

木曾清水冠者義高(きそしみずかんじゃよしたか)を祀る。これは源義仲(木曾義仲)の長男・源義高(木曾義高)のことであり、「清水冠者」とはその別名である。

社号は「八幡宮」であるが、祭神は義高1柱のみであり、応神天皇など他の神は祀られていない。

歴史[編集]

当社の創建は、祭神・源義高の最期が関わっている。『吾妻鏡』や旧入間川町狭山市中心部)の総鎮守である八幡神社に残る諸伝によれば、寿永2(1183)年に父・源義仲が挙兵して勢力を拡大し、それを危険視した源頼朝と反目して一触即発状態となった際、和議に応じた義仲により人質として息子の義高が鎌倉に送られたのが発端である。この際、義高は頼朝の娘である大姫の婿という名目で鎌倉入りすることになった。一種の政略結婚であったが大姫は義高を愛し、一時の平和が訪れた。

しかしその後に急速に義仲と頼朝の関係が悪化して合戦に発展、翌寿永3(1184)年には義仲自身が近江国粟津原で討たれてしまう。このことで義高の地位は決定的に悪化し、頼朝は元暦元(1184)年4月21日に後顧の憂いを絶つため「敵の子に娘を何でくれてやる必要があるものか」と義高の粛清を決定した。

これを聞いた侍女の連絡で身の危機を知った義高は、大姫や義母・北条政子の協力で女装、家臣を身代わりに立てて密かに鎌倉を脱出し、生まれ故郷である武蔵国男衾郡(現在の埼玉県比企郡嵐山町)の菅谷館へと落ち延びんとする[1]。だがすぐにことが露見、「謀叛人」として追討軍に追われる身となる。そして4月26日に入間河原の八丁の渡で追いつかれ、藤内光澄によって討たれた。

これを知った大姫は心労の余り悲嘆に暮れて病臥するようになってしまい[2]、これを義高が討たれたためと考えた母・政子は激怒して頼朝に猛抗議し、義高を討った藤内光澄を打ち首に追い込む。

その一方で政子は義高の供養を行うこととした。首を取られた義高の遺体がその最期を憐れんだ里人の手によって討伐地の入間河原に葬られていたことを受け、その年の5月、その墓の上に義高を祀る社を建てたのである。これには畠山重忠らの口添えもあったという。

そして当社は政子の手厚い保護を受けることになり、政子自身もここに参拝したとの伝が残る。当時は赤の玉垣をめぐらした壮麗な社殿を持つ大社であったが、応永9(1402)年8月の大洪水の被害を受けて大破、再建されることなく現在の狭山市中央公民館付近にあった成円寺(現在廃寺)の境内に移されていた。

その後、幕末になって永享2(1430)年の年号、鎮座の由来と当社の来歴を刻んだ石の祠が現在地より出土する。『新編武蔵風土記稿』によれば神体は法体の義高がうちわを持って立っている像であり、三面に以下のように刻まれているという。

元暦甲辰春哉。義仲男頼朝婿志水義高。遙聞於父之伏誅出鎌倉。舍走鎌形館追兵迫而圍于此。入間河原□長堀氏親家馘冠者首逝矣。郷民埋骸樹槻而爲檀焉。外姑平政子悲己。如斯報號志水八幡也。應永洪水潰廟拔木。大凶其迹故録其傳於槻。基石之小祠以徴討古之信。永享二庚戌之春日建也。

明治時代に入って廃仏毀釈により神仏分離が行われた際、既に元の社地が不明となっていたことから、この祠の出土地をかつての清水八幡宮の鎮座地として遷座。件の祠を本殿とし、その上から木造の覆殿をかけることとした。

現在、当社は国道16号線と本富士見橋に向かう道が交わるそばにたたずむ小社となっており、境内には「清水冠者源義高終焉の地」の標柱や説明板以外目立ったものはない。狭山市指定文化財。

脚注[編集]

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  1. ^ 行き先についてはいくつか説があり、鎌形館とするもの、また奥州藤原氏を頼ろうとしたとの伝もある。
  2. ^ 一部資料ではさらに話を進めて「そのまま死去した」とするものもあるが、大姫が死去したのは本社が創建されてから13年も後の建久8(1197)年であり、史実に反している。

関連項目[編集]

参考資料[編集]

  • 蘆田伊人編集校訂『新編武蔵風土記稿 第8巻(補訂版)』(「大日本地誌大系」第14巻・雄山閣刊、1996年)

外部リンク[編集]