市民プロジェクト「義高の鯉のぼり」沿革

シンボルとしての「鯉のぼり」

寿永3年4月26日(1184年6月6日)に、源頼朝(みなもとよりとも)と木曽義仲(きそよしなか)の政争に巻き込まれて命を落とした源義高〈清水冠者(しみずかんじゃ)〉の最期の地、入間川八丁の渡し近辺。その供養も兼ね狭山市内外の子どもたちの健康と成長を祈念し、「義高の鯉のぼり」を掲揚しております。

「鯉のぼり」をシンボルとした理由としては、没日4月26日(陰暦)6月6日(陽暦)の中間に5月5日(子供の日・国民の祝日)端午の節句があり、一般的な五月人形や兜には、義経(義高の叔父)弁慶など源氏に縁のものが多い。また、義高の御霊が祀られている「清水八幡宮/神社」の社紋は矢車(鯉のぼりの柱の先端につけているもの)になっている。
それらを考慮し、客観的検証を行い当会により決めたものです。

 

【仮説】
中世における武蔵國入間川(現在の狭山市)は東国武蔵國の中では、幕府鎌倉、国府府中に次ぐ

「第三の都」であった。それを解き明かすことが、私たちの今後のミッションである。

 

■活動の経緯

2012年に「狭山市をおもしろくする会」を結成。その綱領の中に狭山市をおもしろくするためのイベント等を行う旨標記されている。当時の主要メンバーの賛同を得て市民プロジェクトとして立ち上げる。
地域の歴史を掘り起こし、今後の観光資源として見直していくことも重要なテーマであった。

 

■清水冠者義高の史実と伝説

地元(狭山市民)においては、その存在すら知らず、830年間ひっそりと息を潜めていた感がある。「清水八幡神社」と「影隠し地蔵」は、この間も地域住民が手厚く祭事として伝承してきたものであった。

 

■鯉のぼりを入間川に揚げ、その存在を知ってもらう。

眠っている「鯉のぼり」を入間川に放ち、源義高の御霊を供養し、市民による新たなる新イベントが立ち上がった。

年々、「鯉のぼり」の数も増え、記念講演も行われ、多くの市民が理解してくれる様は大変意義深い。

 

■街おこしとしての活動

近年、この狭山市も少子高齢化により人口の減少に歯止めがかからず、地域社会において多くの問題を抱えている。その中で狭山市中央公民館が主導する「街おこし事業」の一環として、深く認知される事となる。